vol1-vol10
共感という病
コミュニティーと個人での共感の違い。 同調することで自分に嘘をつかなければならないことがある。 一人だけ違う意見だと要注意人物となり、浮いてしまう場合も。 反対に同じ考えで推進する立場だと味方意識が生まれる。 わかりあえないことが前提にあると救われる気がする。 趣味・趣向が似ている、合う人同士では、初めてでも共感できる気がする。わかってもらえる気がする。期待値が上がる。 会社のコミュニケーションの中では、共感しないようにしている。必要ない場合がほとんどでは。 シンパシー・エンパシーの意味合い、違い。本書では反対の意味合いで扱っていないか。 なんか共感されている、している。そんな感覚的なもの。これが「共感」だというものはないのかもしれない。 「わかる。わかる」「こういうことだよね」って言われると、あなたにはわかるわけないのにと思われる場合も。反対にわはっきりと、わからないと言われた方が安心する。
← BACK TO TOP料理と利他
ハレの日のスペシャルモードで料理をしていると、私はこれだけ手間をかけたのだから、美味しいって言ってほしいとなって、利他から離れてしまいそう。 料理を作ったものに、作為(人間)が残っている。その気持ち悪さ。民藝の意味について印象に残った。 「つくる」は「自然・地球」と「食べる」のあいだにある。そこにつながり、宇宙を感じることができた。畑で土の上に立つと、地球とつながっている感覚になる。 仏教の中に行動が先にあるという考えがある。 うれしいが私にやってくる。このご飯美味しいねが、おいしいがやってくるという感覚。それは怒りや悲しいも同じ。やってくるになると、俯瞰して見ることができる。 素直に人に助けを求めるのは難しい。ある程度、ここまでやってからでないと助けを求められない。 利他の感覚だけでは、なかなか世の中(資本主義)の中ではうまくまわしていくことができない。 これが利他ですということ聞いて、実践できるのも。感覚的に行動できるでもいいのではないか。 料理をしていない人からすると、適当にやっても、ええ加減でいいんですと言われても、難しく感じてしまう。 何か人に施したときに感じる、気持ち悪さをみな感じたことがある。 普段料理を作る習慣がなくても、していないと思っていても、自然と工夫をしていて、そこには愛があるのではないか。
← BACK TO TOP生きがいについて
なにもなく、日常の生活が出きていること。家に帰って美味しいご飯を食べること。朝起きて、仕事にいけること。当たり前が送れていることも一つの生きがいの形であるかも。 人事異動があり、新しい部署へ。周りの人と比べてしまう。何もできない自分に価値があるのかどうか。自分がいなくても、いなくなっても仕事がまわっていくのだろうか。誰かがもしかしたら悲しんでくれるかもしれない。そんな人が少しでもいるのであれば。 今までは会社と家との往復であったが、会社・仕事以外に何かを持っている。別のやっていることがあるだけで、仕事へ対しての心持ちが変わってくる。 誰も私をみてくれてなくても、必要とされていなくても。地球、自然だけは私を包んでくれている、地面の上に立ってつながっている感覚が実感として感じる。 若い時はやっていることに意味があるのかなと思っていたことが「ありがとう」のその一言で、意味が生まれてくる。やっていてよかったと思える。 介護をする上で、患者さんと関わる上で、自分の過去の病気や怪我で療養生活をおくった経験が生きてくる、その人の立場に立って考えることができるようになる。 生きがいの定義のひとつに、「やりたいからやる」ということが書いてあるが、自分自身で「やらなければならない」と口癖のようにいう人がいる。やらなければならないことに囲まれているのかもしれない。 やりたいこと。生きがいと聞くと壮大なイメージになってしまう。しかし、日常の小さなことに生きがいを感じられることもある。 他人が介在しないこと。そこに生きがいが生まれやすい。周囲が気にならない。目が気にならないから。 四国のお遍路、毎日の散歩の中で出会う人とのつながり、野菜や多く作ったご飯をいただくことができる。あげる側は、あげることに対して生きがいが生まれているかもしれない。 お寺の境内で、写真撮影をしている人たちが、交互に撮影しあっている要するをみて、声をかけて皆が一緒に写れるようにすること。感謝をされる時の嬉しい気持ち。
← BACK TO TOP穴のあいた桶
自分の中にある種をまく。どんな種が自分の中にあるのか。蒔こうと思う種はあるけれど。自分自身の中にある可能性の種となると、すぐにはでてこなさそう。 満たされている状態とは。どんな状態なのか。満たされているような気がするけれど。ご飯を作って食べるとお腹は満たされるが、一緒に食べてくれる人などがいないと、満たされない何かがある。 座禅をした後に「自分は満たされていたんだ」という発見があった。 やってみたいことはあるけれど。それが本当にやりたいことなんだろうかと思うと違うかもしれない。反応的にそう思っているだけかもしれない。 仕事で成功したけれど、人間的に成功できていたのだろうか。スティーブ・ジョブズもそのような趣旨の話をしていたのを思い出した。 自分の日常の中で、飲食店でお客さんとしてサービスを受けていたが、ふとした時に、逆にこの店員さんたちは私のお客さんでもあるのだという気づき。繋がりを感じた。縁を感じざるを得なかった。 亀のお兄ちゃんがずっと見張っている話。サンドイッチを食べてしまったのはお兄ちゃんの行動の結果でもある。敵をつくっているのは自分自身である。 山の山頂を目指す表現があるが、山あり、谷あり。最後には山を降りなければならないという話を覚えている。 弘法大師様も、まずは飢えている人たちへの食事からということをしていた。まずはマイナスをフラットにするところから。 新しいものを手にするには、古いものを手放さなければならない。古いものも大切にしつつ、新しいものを取り入れていくことも大事なのではないか。 人に勧めやすく、読みやすく、人に気づきを与えてくる本であった。
← BACK TO TOP「自由」はいかに可能か
会社を辞めて、自分のやりたいことをやる。それが周りに自由と見えている。 自由にやっていいから。というと困ってしまう人の方が多いのではないか。 昔のドラゴンクエストのように、こなしていくゲームから、オープンワールドのゲームへと変化すると、それを楽しめる人と、結局インターネットで効率の良い進め方をしてしまう。 海外のある女性の例で、イスラムのムスラムに入る。戒律が厳しいが、個人的な人権が認められていても、何をしたらいいかわからない人が、ある縛りの中に行きやすさを見いだしている。 仏教のある宗派の修行では、朝起きてから寝るまでのことが事細かに決まっている。一見自由がなさそうにみえるけれども、こなしていくうちに頭を使わずに自然に行えるようになってくる。そこに余裕が生まれて、ゆったりと座れるように、そこに意識が向かうようになるのでは。 カウンセリングを勉強する中で、親の刷り込み、洗脳をいかに解いていくかということがある。そこから自己解放へと繋がり、自由になっていう過程がある。 カラダの底から湧き出てくるものを叶えていく、実現していくこと。 お経を読んでいる時も自分が読んでいるのではなく、そこに自分をなくしていくこと。 自由の押し付けを年齢を重ねるごとにしなくなった。自分の自由は相手にとっての自由とは限らないから。また自由を奪ってしまうことにも。 個の世界をを求めれば求めるほどに、集団、村への回帰していくのではないか。 自由を求める先はリアルでも、仮想空間でも自由に選べばいい。
← BACK TO TOPスマートな悪
やりたいことがない。どうしたか聞いても特にない。 現代に生きる人は困っていないのではないか。 考えることをやめている人が多い気がする。 満員電車の暴力性。格好よさ。満員電車に乗っている時は感覚を麻痺させていた。無感情になっていく。 役場の人たちは組織運営が最適下されていて、うまく回すこと自体が目的化されている。 ここではスマートさ・最適化が悪であると。しかしそれらはあくまで中立ではないか。最適化のイメージは「達人」「名人」である。 仏教でいうと、体をつかうこと。身体感覚を重視する。 境内や参道をあるいていって、お参りすることに意味がある。 最近の葬儀、結婚式などは、最適化され過ぎている。人を弔うにも簡素になり過ぎて、お送りした感覚がないのではないか。手間があるからこそ、気持ちが生まれる、記憶に残る。 野生の思考。未開人たちは別に困っているわけではなく、幸せに暮らしている。なおかつ身体感覚に優れている。 新しい人と出会う。その人のホームへとお邪魔する。 心のゆとりを。一時的なものでない。くずれないゆとり。そこに気づきが生まれて心が満たされていく。
← BACK TO TOP「人それぞれ」がさみしい
人とつながらなければならない煩わしさ。強制をすることがいいのか悪いのかは別にして、一種の強制力も必要か。 自分の言いたいことをいう。それは意思表示であったり、一つの意見であって、人格否定ではないが、それが日本では難しいのか。 一種のカミングアウトをされたときに、どこまで深く聞いたらいいのかわからない。もっと聞いてもいいのか、触れないほうがいいのか。 昔の共同体の生活では、一種の不便さが存在していて。その不便さが人と人をつなげる接着剤。きっかけになっていたのではないか。 一種の豊かさ、ゆとりが生まれてきて、やらなくていいことから解放される。便利になっていくと、色々なものが面倒になってきて、昔はやっていたことも面倒に、億劫うになってきてしまう。 昔は学校で居場所をなくしてしまうと、行き場がなくなってしまっていたが、今では子供食堂や、哲学カフェのような、サードプレイスが存在していて、無理に学校での居場所を考えなくても良くなった。 人それぞれ、みんな違って・・・、まではきたかもしれないが、「・・・みんないい」というところまではきていないのではないか。 相手を理解するところか、そこを出発点に考えたい。聞くこと。まずはそこからスタートしていきたい。 依存→自立→貢献 へとつなげていきたい。 昔は近所のお節介があった、地域で子供、年配の方を見守る仕組みがあったが、それがいつの間にか行政の役割に変わり、近所同士の付き合いが希薄化している。
← BACK TO TOP「老いる」とはどういうことか
年齢を重ねていくと、肉体的な衰えを感じる。若い時にできていたことができなくなっていく。 周囲の高齢者の方が、80、90歳と歳を召されるごとに、老いていく様子を目の当たりにする。自分も老いていく。自分はどうなっていくのだろうかと考えることがある。 やりのこしたことはもうない。自分はもう祖先になるだけ。山岳信仰では山へとやがて還っていく、そしてご先祖様たちは山から見守ってくれている。 どうしても一つに括りたがる傾向が日本にはあるが、対応を皆同じようにするのではなく、老いにも個性がある。ひとりひとりに向き合う必要があるのではないか。 年齢を重ねていっても、新しいことを始める姿勢は大事だと思う。 回峰行は歩く瞑想ともいわれている。 老いとは死に近づいていくこと、きっと霊性、スピリチュアリティーが溜まっていくんだと思う。 意見を押し付けるのではなく、知恵袋として若い人たちと付き合うことができれば。 自分が亡くなる前に一花咲かせる。私もそうなれたら。 自分が高齢者になったときに、生きやすい、過ごしやすい環境を今から作っている。 延命治療を日本は続ける傾向があるが、やはり福祉が充実している国では延命しない選択を選ぶ人も多い。
← BACK TO TOPさとりをひらくと人生はシンプルで楽になる
実際に怪我をして救急に運ばれ、目覚めたときにぼんやりしていたものが徐々に感覚が戻っていって、痛みが出てきたときに生きていると感じる。痛みばかりに意識が向かっていた。 時々、自分がどこにいるのか、わからなくなることがある。今にいないなと思うことがある。身体を置いていってしまっているなという感覚。 この本は「今に在ること」を強調しているように思う。 普段、家事をするときも集中しているようにみえて、他のいろいろなことに意識が向きながらやっていた。ながらで色々なことをやっていることに気がついた。ただの野菜の千切りをするにしても、集中するだけでいつもの内容が変わって見える。 身体を使うこと、密教での阿息観(あそくかん)、禅での止観(しかん) 自転車の乗り方をみたり、聞いたりしてわかったつもりでもいても、実際に乗ってみるとうまく乗れない。しかし乗る練習をしていくうちに、意識しなくても自然に乗れるようになっている。 体験を「内」からみるのか、「外」からみるのか。 能の話で役者が観客席側から見ている、見られている感覚で演じるという話がある。止観(しかん)は雑念を捕まえていく。雑念のねずみとりを行う。とても疲れる。 怒りが起きそうだなと思ったときに、対処できるといい。 言葉が生まれてから、どんどん概念が増えていってしまった、いろいろな状況が生まれてしまった。 自分の物差しを持っている人は、周りからの影響を受けずに済む。 カラダに意識を向けて瞑想をできるように、呼吸、意識をむけていきたい。
← BACK TO TOP限りある時間の使い方
コミュニティーの関わり方。日常の中で何気ない話をすることができるかどうか。とても大切なことではないかと感じ始めている。 ヨルダンのムスリムの人の話、電気も満足に使えないようなホテルのある地域で、ガラクタをたくさん集めて売っている人がいた。その人は5ヶ国語を話すことができて、周囲の人から「あいつはすごいやつだ」といわれてはいるが、当の本人は稼ぐことはできるが、あまりお金にも関心がなく。毎日川を眺めて過ごしているとのことだった。 ただその場所にいて、好きなことをすること。良い時間の使い方ができている。 仕事をしなくてはならないと思ったりするが、それは資本主義に染まってしまっているのではないのか。 昔は、夏目漱石のような高等遊民といわれるような、当時の高等教育を受けたような人で、経済的に不自由がないために、特に仕事をしない人などがおり、その人たちの時代から「暇」をどのように過ごすのかという問題が起こっていた。 資本主義の中で稼いで何に使うのか。それよりも質であったり、心地よい時間を過ごせるかどうかが大切なってくるのではないか。 「モモ」を読み返したところ、その中でも待つということ、今を生きるということに触れられている。 スクールの語源は「スコレ」すなわち「暇」という意味 食器洗い機を使って効率化をするのではなく、食器を洗うこと自体を楽しみながら、体験しながら洗うことをしたい。 みんな死んでいる。受精卵となった瞬間から死へと向かっている。 時間の使い方、自分の使い方。それを明確にすること。ビジョンを描くことができる。優先順位をつける。実施することを選択していくこと。 不快な成長。選んでいきたい。
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